ヴェネチア散策

◆塩野 七生『海の都の物語(上・下)』[新潮社]を読んで 

「水上都市」として知られるイタリアのヴェニス(ヴェネチア)は、じつに不思議な町である。アドリア海のラグーナ(干潟)に浮ぶこの町は、150を越える小さな島々からなっていて、島と島の間を移動するには橋かゴンドラなどの船を利用するしかない。車が走れない町でもある。

 ヴェニスでは、迷路のような狭い路地に入ると、真夏の昼間でもうっすらとした闇に包まれる。しかし、路地から一歩広場にでも出ると、突然コバルトブルー色の青空に輝く太陽の明るさで目がくらくらしてきて、その明暗の落差の激しさにはいつも驚かされる。観光とは「光を観る」と書くが、光を観ることは同時に「闇を観る」ことでもあるのだと気づかされる。

私がこの町の姿をはじめて目にしたのは、中学生時代にトーマス・マン原作『ヴェニスに死す』(1971)を映画で観たときである。ヴェニスのホテルで偶然見かけた美少年に魅入られたある芸術家の苦心と恍惚を描写した作品だが、大人の退廃的で甘美な世界の一端を覗き込んでしまったことに恐怖心を覚えつつも、ヴェニスの町の不思議な魅力にすっかり心を奪われた。いつかは自分の足であの島を歩いてみたいと切望するようになったのである。その夢は25年後にやっと実現し、いままで何度この島に足を運んだことか(去年は2度訪ねている)。

私の専門分野は経営学であるが、じつはヴェニスは経営学の歴史と深い関係がある。複式簿記が考案されたのも、株式会社的なビジネスの仕組みを発展させたのも、東方貿易で栄えた海洋国家のヴェニスにおいてである。また、強大国に囲まれていながら、天与の資源に恵まれないこの小さい都市国家が、しかも国体(統治システム)を変えないで、いかに1000年間も繁栄を謳歌できたのか。その歴史をについて調べてみればみるほど、経営学の戦略論や組織論のエッセンスがいくらでも見つかるのである。例えば、ヴェニス共和国の統治システムが一個人や一機関に頼らず、特定の人や機関に権力が集中することを極力排除した仕組みを採択してきたことは有名であるが、最近重要な経営テーマとなっている「コーポレート・ガバナンス」の議論を考える際にヴェニス共和国の統治システムはじつに示唆に富むケースなのである。

塩野七生氏は、もちろん経営学者ではない。しかし彼女の労作『海の都の物語』を読むと、「虚の世界」に住むはずの作家でありながら、「実の世界」を相手とする経営学者よりもよほど組織及びそこで働く人間についての記述が卓越していて、経営学者として深く反省させられる一方である。物事の“本質”は、ノンフィクション(研究論文)よりも、フィクション(小説)で書いたほうが明瞭に表現できる場合があるのだと、痛覚させられる。

 本書は、ヴェニスついて深く知りたい人はもちろんだが、組織のマネジメントやリーダーシップなどに興味のある人にはぜひお勧めしたい本である。