フィールドノート  

中国人の影

−イタリアのプラート(Prato)地域の現状について−

昨年の夏(2007年8月〜9月)、イタリアのフィレンツェ大学にVisiting Research Fellowとして訪問滞在する機会に恵まれ、同大学(経済学部)のOttati教授の協力を得ながらフィレンツェ近郊にあるPrato(繊維産地)地域のフィールド調査を行った。
 イタリアの3大繊維素材産地の一つであるPratoは、ルネサンス期以前から多くの職人が毛織物を生産してきた地域である。60年代から集積化が始まり、80年代半ばに危機的な状況を経験しながらも、綿や麻などの多様な素材の開発とデザインに力を入れ、近年はハイファッションに対応した付加価値の高い素材(生地)を生産する地域として世界的に知られている。
 細分化された工程(原料仕分け、洗毛、紡績、染色、整糸、織布、フィニッシング)に特化した企業群(Stage Firm)と、これらの企業の生産工程全体をコーディネートするオーガナイザー企業(Impannatore)間の分業構造を武器に世界的な競争優位性を保ってきた地域としても有名である。
 私は5年前にも同地域を調査に訪れたことがあるが、当時はほとんど聞かれなかった「中国人系の企業(工場)」の存在が、現在は彼らの存在を抜きにしてこの地域を論ずることができないほど、大きな社会的・経済的・政治的な問題として台頭していた。
 Pratoには現在約8000社の企業が活動をしているといわれているが、そのうち約1500社が中国人系の企業であり、しかもそのほとんどが中国の「温州」(浙江省)出身であることが今回の調査で明らかとなった。Prato地域の人口17万人のうち、中国人は(公式的な数字で)2万5千人。不法滞在者を含めると、少なくとも3万人以上にもなるといわれている。Pratoの中華街(China Town)、Pistoiese通りを歩くと、すれ違う人々のほとんどが中国人と言っていいくらい、実におびただしい人数の中国人の姿を見ることができる。「ここが本当にイタリアなのか」と自分の目を疑いたくなるほどである。
 海外に居住する中国人(華僑)のほとんどは主に商業やサービス業(レストランや小売店、クリーニング屋など)で生計を立てているのが一般的なのに、ここPrato地域の華僑たちは「ものづくり」を、しかも特定の場所に集積して展開しているという、きわめて珍しいケースである。
 Prato地域の中国人系企業は、素材(糸や生地)関連分野に従事しているイタリア企業との競合を避けて、主に完成服(既製服)作りの分野に特化している。原材料をPratoまたは中国の温州地域から仕入れ、 Pratoの工場で賃金の安い中国人従業員(不法滞在の中国人労働者も多い!)を使って完成品を生産するというのが、彼らの事業展開の基本的なパターンとなっている。完成服の製品はイタリア国内やEU域内で販売されるし、Made in Italyとして海外にも輸出されている。


 

 
                   〔Pratoチャイナタウンの様子〕(筆者撮影)


 中国でも貧しい地域とされてきた温州市(浙江省の南東部に位置)は、改革・開放政策導入後、革製品や衣服、メガネなどの日用雑貨品の「世界の工場」地域として発展し、民間企業を中心に飛躍的な経済成長を遂げたその経済発展のあり方は、しばしば「温州モデル」として世界から注目されている。
 特に注目すべき点は、温州人の国内外に張り巡らされた「温州ネットワーク」である。温州市の人口750万人に対して「外出温州人」は190万人(中国国内150万人、海外40万人)に達し、温州人の5人の1人は故郷を離れて国内外の外地で暮らしている。ヨーロッパではパリとミラノに多くの温州出身者が居住し、近年はPratoに大コミュニティが形成されつつある。Prato地域に中国人系の企業がここ4〜5年で一気に増えたのは、彼らの「温州ネットワーク」を抜きにしては語れない。
 しかし、これほど多くの中国人(企業)が特定の場所に集積し地域社会にさまざまな影響を及ぼしているにもかかわらず、実は(少なくとも経営学の面で)彼らの事業活動についてはほとんど研究されていないのが現状のようである。Prato産業集積地の研究に関しては第1人者あるフィレンツェ大学のOttai教授は「Prato地域の中国人企業についての研究はこれからのホットなテーマだ」と述べるに止まっていたし、「産業連盟」(Unione Industriale Pratese)などの地元の関連団体や行政側に尋ねても中国人(企業)に関する詳しい情報やデータ(cf.,正確な人口や企業数など)を持ち合わせていなかったのである。Prato地域における中国人(企業)に関する研究調査がほとんど成されていないのは、言葉の問題(中国語がわかるイタリア研究者がいない)に加え、中国人社会独特の閉鎖性も主な理由として指摘することができる。
 中国の温州及びパリ、ミラノの同郷人とネットワークを組んで事業活動を展開している彼らのネットワーキング行動は経営学的にきわめて興味深い現象である。「温州ネットワーク」は中国温州にヨーロッパの新しい情報(商品や販路などに関する情報)を持ち込み、それが温州経済発展を支えている一方で、温州からは安価な商品や原材料、人材の供給を受けることができ、ヨーロッパで経済活動している温州人にも大きなメリットをもたらしている。
 今後の研究課題としては、この「温州ネットワーク」が具体的にどのようなプロセスでPrato地域に形成され、実際にどのように機能しているのか。またそのネットワークに流れる情報や資源とは如何なるものなのか、などについてミクロレベルの詳細な調査を行いたいと考えている。